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母を偲んで [日々の出来事]

母が2012年10月25日に他界しました。

その日、私は新横浜に出張だった。
朝、早めに会社に着いた私は、一本早い新幹線に乗り、出張先に行くことにした。
歩いていると、大概、携帯には気が付かないもので、乗ってから、父から、電話が2回ほど入っていることに気が付いた。
そうは言っても、新幹線の中。受信も悪いので、新横浜に着いてから電話しようと思った。
そう思ううちに、再度、電話。
出てみると、『ママ死んだよ』と。
『はぁ?何?どう言うこと?』と、今、思えば、間抜けな応対をしたものだが、その時は何を言われているのか、瞬時に理解できなかったのだから仕方ない。
父が4時半に起きて、声を掛けたが、返事がなく、おかしいと思った父が、母を揺すってみると反応がなく、既に息はなかったらしい。
まだ、温もりがあったと言うから、心停止して、2時間くらいだったのかもしれない。
ただ、見掛けはいつものように寝ているとしか見えず、最初は寝ているのかと思ったらしい。
おそらく、苦しまずに、もしかしたら、死ぬことも意識しないまま逝ったかもしれない。
葬儀の時に、近所の方々が来てくださって、皆さん、綺麗な死に顔とおっしゃってくれたので、多分、静かに逝ったのだろう。

母は骨粗鬆症で、頸椎骨折を引き起こし、2年前から寝たきりになっていた。
それでも、よく食べたし、よく話した。
だから、私は死と言うことはあまり、考えなかった。
勿論、寝たきりだったから、家族の中で一番早く、逝くのだろうとは、なんとなく思っていた。
でも、こんなに早く、逝くとは思ってもみなかった。

先週、私は母の夕食を作りに行った。
ある程度書いていてくれたのだけれど、野菜がメニューになかったらしい。
悪いと思ったのか、食事中には言わず、終わってから、『野菜がなかったね』と言った。
『言ってくれれば、すぐ、作ったのに。食べたいものがあったらちゃんと言ってね』と言い、来週はちゃんと作るよって、食事のメニューをメモしたのだった。
今週は早めに行って、食事を作るつもりだった。
そう、言い換えれば、今週もいつものように時間は過ぎていくと思っていたのだ。

おそらく、父もそうだったと思う。
先月、ベットを置いていた部屋が畳だったので、フローリングに改築したばかりだ。
車椅子も買うつもりでいた。
薬も注射針も一杯買っていたから、まだまだ、死ぬなんてことは考えていなかったはずだ。

思い返せば、2年前、母は突然、歩けなくなった。
朝、起きてみたら、立てなくなっていたらしい。
父は速効で、介護用ベットを入れた。
母が施設に行くのを嫌がったので、ずっと自宅で、介護していた。
最初の頃、母の体を拭くのは自分がやるから良いと言っていた父が、ここ1年くらいは、来てくれて助かると言うようになった。
父も大分、疲れていたのだろう。
父も今年、83歳だから、当たり前だ。
それでも、『家が良いんだよな』と言って、介護していた。
父は怖い人で、小さい頃はずっと、母に付いて回っていた。
大学からは、外に出ていたのだか、帰る度に、『パパが細かくて、煩くて』と言っていた。
もっとも、後年は、母も神経質で、大差ないんじゃないかと思っていた。
今思えば、結局、似た者夫婦だったのかもしれない。
とにかく、良く、そんなことを聞かされていたから、私は、ずっと、この夫婦はあまり、仲良くないのだと思っていた。
が、母の荷物を整理していたら、結婚前に父が母に海外から送ったエアメールを見つけた。
誰から?と思って、よくよく見たら、父からだった。
そこで、私は、両親は恋愛結婚だったことを思い出した。
そうかぁ、一生懸命、口説いたんだ。
そして、母も手紙や写真を取っておいたんだ。
夫婦の仲は子供でも分からない。
相思相愛だったんだね。
母は花が大好きで、庭にはいつも花が植えられていた。
母が寝たきりになったからは、父が庭の手入れをしていた。
母の葬儀の後、父が、『花の植え替えもしないといけないな。もう、見せる人がいなくなっちゃったけどな』とポツンと言った。
庭の手入れなんて、全くしなかった父が何故、始めたのだろうと思っていたが、そう言うことたったのか。

母は美人だったから、父が惚れ込むのも無理はない。
母の遺品を整理していたら、一緒に写っている写真を見つけた。
何と言うか、美人の母に、不細工な娘って感じて、何とも抹消したくなる写真だった。
そう言えば、先日、シルバーさんに、母と似ていると言われたが、謎だ。
どこからどう見ても、父親似だと思うんだが。
私は、体格、体質と、全て父親似だ。
小さい頃、母と一緒に歩くと、妹さん?と良く聞かれたものだ。
似ていないから、親子だなんて思いもしなかったのだろう。
それにしても、親子を捕まえて、姉妹とは酷い言い草だ。
おかけで、私の容姿コンプレックスは今に至るまで続いている。
その母に似ていると言われたのだから、少しは喜んでも良いのだろうか。

母は、物凄く神経質で、大胆な、両極端な性格を持っていた。
大胆と言うか、思いきりの良い人だった。
根に持たない、竹を割ったような性格。
この辺は受け継いだかもしれない。
その反面、神経質だから、自律神経失調症になり、頸椎骨折をした後は体が浮いた感じがするとよく言っていた。
父と介護に来ていた近所のオバサンが喧嘩する度に、神経を使いすぎて、フラフラしていた。
一言付け加えておくと、この近所のオバサンが盗癖のある手癖の悪い人で、母の宝石類、衣類、ハンカチ、帽子、カバン、まぁ、ありとあらゆる物を持っていったらしい。
何せ、おせち料理やお米、その他、日常品をうちのお金で買い、お金を払わずに持っていったのだから酷い話だ。
それでも、母が介護に来てもらいたがったので、父も辞めさせられずに、つい最近まで家に入れていた。
母に言わせると、夜中でも来てくれるから便利なのだそうだが、余りにもやることがえげつなく、ここ1ヶ月は出禁となっていた。
オバサンは夜中の2時に来て、ご飯を食べさせてくれていたらしい。
もし、今までのように2時に来ていたら、母は助かったのではないか?と思わなくもない。
寝たきりになって2年、近所のお医者様に、よく持ちましたねと言われたらしいから、もう、寿命だったのだろうけど、つい、そんなことを思ってしまう。

母は子離れも出来ていた人だった。
私に自分の考えを押し付けることなく、私の考えを尊重して、応援してくれた。
結婚で色々あった時も自分の人生なんだから自分の思うように生きなさいと手紙をくれた。
自分も一人娘だったから、子供に固執していなかったのかもしれない。
今思えば、もう少し、甘えて貰っても良かったかもと思う。

車椅子を駆ったら、デパートに行こうと話していた。
今はそれも叶わない。
こんなものを書いていると、つい涙が出てくる。
いつまでも、泣いていたら、母に笑われそうだが、仕方がない。
私の友達が、涙が出て当然と言ってくれた。
彼女は御父様を亡くされているので、同じような状況だったのかもしれない。
何にせよ、その彼女の言葉に大分、救われた。
仕事が忙くて、土曜日しか介護に行かなかった。
それでも、土曜日に行く度に、帰り際、母は、『ありがとう』と言ってくれた。
何もしてあげられなかったのに、母はいつも優しかった。
今は、天国で、祖父母と逢えていると良いなと思う。
非科学的だが、そう願わずにいられない。
私は、そろそろ、泣かないようにしないといけないかな…
今は、まだ辛くて、友達がlineで送ってくる世間話には、とても対応できないが、周りの人達を大切にしていきたいと思っている。

母の遺品の中から、結婚した時の写真も出てきた。
可愛い!
父もカッコいい!
と言うわけで、スキャンして持ち歩こうかなぁと思っている。
昔の写真だから、赤みがかってしまっているが、そこは現代技術で修正できるだろう。
そのうち、私の笑顔の源になるかもしれない。

私は母の死だけで、とても悲しい思いをしている。
ふと、東日本大震災のことが頭の中を過った。
親族を亡くされた方々はどれだけ、辛く、悲しかったのだろう。
改めて、ご冥福をお祈りしたい。

母が他界し、通夜、葬儀に参列して頂いたり、お悔やみの手紙や電話を頂いた。
母のことを想って下さった皆様に感謝したい。
皆様、暖かいお言葉をありがとうございました。
本ブログをもって、御礼申し上げます。


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